【下ネタ注意】相対的な幸福とおっぱい

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※下ネタしか書いていませんので、苦手な方はご注意ください。

相対的な世界の中で生きている俺たちは

俺たちの生きる世界に「絶対的」というものはない。いつだって相対的だ。

例えば「1万円」を大金だと思う人もいれば、はした金だと思う人もいる。
「30歳」を若いと思う人もいれば、おっさんだと思う人もいる。
「オアシズの大久保さん」をブスだと思う人もいれば、美人だと思う人もいる。

「たった一杯のかけそばを分け合う親子」をひもじい、可哀そうにと思う人もいれば、仲睦まじくうらやましいと思う人もいる。

 

俺の身長は178cmだが、目の前に190cmを超えるような男性がいれば、あまり深くは考えずに「いいなあ、俺もそのぐらい身長が欲しかったなあ」と言うだろう。それは俺が心のどこかで「高身長=いいね!」という方程式を持っているからだ。

でも、当の本人にとっては必ずしもいいものとは限らない。
これまで聞いた限りだと、

・天井に頭をぶつけやすい
・「バスケやってた?」と勝手に決めつけられる
・なかなか合うサイズの服がない
・特徴が「背の高い人」だけになってしまう

などなど、俺たちの想像を絶するほどの苦渋をなめてきた。

 

結局、この世には「絶対的な幸せ」なんかない。

成功すれば幸せになれるとも限らないし、失敗しても、貧乏でも、幸せな人はいる。

幸せについて本気出して考えてみても、結局は人それぞれであり、そもそも「生まれてきたからには絶対幸せになりたい」という人もいれば、そもそも「幸せじゃなくてもいいから、穏やかでつつましい暮らしがしたい」という人もいる。
俺が心から憎んでいるあの納豆のことを、「毎日でも食べれますね」って愛してしまう人もいる。

そしてそれらに正解不正解はない。
「みんなちがって、みんないい」という詩もある通り、みんなの意見はそれぞれが正しい。どれがいい悪いなんてことはない。

幸せかどうかは、自分の心が決めるんだから。

 

相対的なおっぱいの話

・・・というどこぞのJ-POPで聞いたことあるような内容の前振りはこのへんにして、ここからが本題です。

そう、タイトルにもあるように、おっぱいの話だよ。
(おっぱいの話をするせいでアドセンス広告がはがれないかどうか心配だけど)

 

俺たち男にはなかなか理解しがたいところだが、実はあの胸部のサイズに関しては女性はけっこうシビアである、とロイター通信も報じている。(真っ赤なウソです)

小さすぎてもよくない、大きすぎてもよくない。
Cカップの人はDカップを求め、Dカップの人はEカップを求め、Eカップの人はFカップを求め、Fカップの人は「もっと小さいほうがよかった」と嘆く。ないものねだりとはこのことである。

 

だが、しかし。

実際のところ、C~Dぐらいの人からそれほど深刻な悩みを聞いたことはない。
「もっと大きかったらなあ・・・」という気持ちを吐露する人はいるものの、その口調には決して深刻さや切実さは含まれていない。彼女たちのサイズは一般的に見ても「バランスのいいもの」であるため、内心はそこそこ満足しているのだ。

つまり、自身のサイズについて一家言を持っているのは、往々にして「大きすぎる or 小さすぎる」族の人たちである。
もっと大きければいいのに!小さければよかったのに!彼女たちが語るその怨嗟の声は筆舌に尽くしがたい。

いやあ、でも、気持ちはわかる。

人は元来ないものを求める生き物だ。大きな者は小さな物を、小さな者は大きな物を求める。
人間が恋人を選ぶ基準として、「自分にはないものを持っていそうな相手」を無意識にチョイスしてしまうという習性もあるようだ。

 

でもな!俺今日、声を大にして言いたい。フォントサイズを特大にして言いたい。

サイズのことなんて、何も悩む必要はないんだ!

と。

みんな違ってみんないい。心からそう思っている。
「どんなおっぱいかじゃなくて、誰のおっぱいかが重要だ」というのは俺の持論だからだ。

確かに「好み」というものは人それぞれある。Aがいいとか、Gがいいとか。俺も「Fがいい」という好みはあるが、そんなものは些細なもので、家を建てる時にエアコンのメーカーはどこにしようかという違いぐらいのものだ。エアコンから逆算して家を建てる人はいない。でも、もしエアコンそのものに何かしらの不具合があるのであれば、俺たちが責任を持って対処しようじゃないか。

「私、サイズが小さいから自信がなくって・・・」

大丈夫、その場合は俺たちに一任して頂いて、誠心誠意お揉みしよう。むしろ揉ませて頂きたい。
これこそが俺たちの唱えるPPAP (Pai Perfect Adoring Promotion : おっぱいを完全に愛することによる促進) である。

「大きすぎるから肩がこっちゃうの・・・」

任せていただきたい。俺たちはいつでもあなたの肩を揉もう。
サイズが合う下着がなかなかないのであれば、そのまま俺たちの手をブラジャーだと思ってくれて結構だ。
裸一貫で肌快感。今誰かが韻を踏んだ。

 

 

とはいえ、これだけ俺たちメンズが「おっぱいのサイズなんて気にしなくていいんだよ!みんなそれぞれいいおっぱいじゃないか!」と熱弁を振るったところで、
実は女性がサイズについてあれこれ悩んでいるのは、「同性の目を気にしているから」だという仮説も考えられる。
もしそうなら、わざわざこんな記事で声高らかに「どんなおっぱいも素敵!おっぱいイズジャスティス!」と叫んだところで、まったく意味がない。ドナドナで売られていく子牛に向かって「生きてたらいいことあるよ!」とぐらい意味がない。

 

おっぱいは心の問題

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冒頭にも述べたことだが、「自らのサイズ」を良しとみるか悪しとみるかは自分の心の問題に帰着するだろう。

男性側がいくら手を差し伸べたとしても、女性側が自らのものに満足がいかないなら、心の渇きが潤わないなら、なかなか幸せは得られない。
寄せてあげるブラに手を出したり、なんとかして脇の肉を胸に持ってこようとしたり、ヌーブラなどを駆使して偽りの谷間を作ったり、そんな「おっぱいの粉飾決算」に手を出してしまうことだろう。それだけ女性がおっぱいの冥府魔道に突き進んでも、俺たちメンズはあれこれ物申せない。

でも、サイズという話なのであればむしろ女性よりも男性だって悩むべく節はある。こっちのほうが死活問題かもしれない。

 

正直なところ、我々メンズは、自らの「サイズ」についてはもうどうしようもない。
それでもなんとかしたいなら、手術するか、怪しげなサプリメントに頼るしかない。

だから、俺たちはもう「ありのままの息子」を愛するしかない。

周りと比べて一喜一憂するかもしれない。銭湯に言ってえもいわれぬ敗北感を得ることもあるかもしれない。
それでも、今日も元気なわが息子。無病息災。これ以上に大事なことって、ないでしょう?

確かに、「もし俺の好きな人が息子のことを気に入ってくれなかったら・・・」という一抹の不安もないわけではない。でも、その時に「相手に気にいってもらえるように自分の息子にスパルタ教育を施そう」などと考えるのは親のエゴであり、醜い見栄だとしか言えない。

だから、そうではなく

「ありのままの息子を大事にしてくれる相手を探そう」

という気持ち。こういう考え方もある。
自分を相手に合わせるというより、自分の身の丈にあった相手を見つけるということも、大事なのかもしれない。

向上心を抱くことは尊いけれど、ありのままの自分を誇ることもまた素敵だ。
だから、そういった意味で、男性も女性も、自らの「サイズ」と向き合ってみてはどうだろうか。

 

 

 

 

僕らが生きている世の中。絶対的なものなんて何もない。

考え、尺度、価値観、そんなものは日々変わっていくし、それは誰にも止められない。
でもその中で、確固たる自分の信念を築いていくことは決して不可能じゃない。

 

まずは俺も、ありのままの自分を愛してくれるような女性を探さなければ。

もしこれを読んでいる中にそんな方が万一いらっしゃるのであれば、ぜひご一報ください。
そしておっぱいをもませてください。

大丈夫、どんな大きさだってウエルカムなんだから。

 

【おしまい】