酢豚の怨嗟とイニシアチブ

subutann_mini

 

「・・・それ、美味しそうだよね」

「ん?そう?」

 

何気ない中華料理屋の何気ないテーブル。

そして、何気ない俺ら。

いつもと変わらない俺たち。
いつもと変わらない雰囲気。

そんな俺らの前には、注文通りの品が並んでいた。
俺のすする五目タン麺。彼のほお張る酢豚。

一見和やかなこの食卓。

どこにでもある食卓。

決してドラマのワンシーンのように絵になるものではない。
でも、そこには静かな駆け引きが確かに存在していた。

 

 

「それ、美味しそうだよね」

2度目。俺は2度もそう言った。

彼の食べる酢豚が、もうどうしようもなく、美味しそうに見えて仕方がないのだ。

 

「ん?そう?」

これも2度目だ。

なるほどね、そうきますか。
この流し方、きっと彼は俺に酢豚をあげたくないのだろう。

しかし、酢豚。
1度気になってしまった以上はもうダメだ。

人の欲望というのは恐ろしいものだ。

食べてみなくてはおさまらない。
ちょっとでいい。一口、そう、一口でいい。

どんな味がするのか、それだけわかれば俺は素直に感謝の1つも述べようさ。

この歳だから酢豚の味を知らないわけではない。
だが、隣の芝生は青い。
目の前の人間が食べているものがなぜかとてもおいしく見えてしまう。

 

だから、この俺にその味を一口でも堪能させてくれるなら、俺はなんだってするさ。

「ギザ10にはものすごい価値がある」と、俺に100円で買わせたあの日の暴挙を許してやってもいい。

 

 

「ねぇ、1つだけ言っていい?」

「何?」

「酢豚くれ」

「・・・はは」

 

・・・こいつ、俺の懇願を一笑に付しやがった。

 

まあな。確かにそうだ。

彼の態度に多少なり水と七味唐辛子をぶっかけたい部分はあるが、何も犠牲を払わず酢豚を手に入れようなんて、確かに俺も甘いのだ。俺はちら、と自分の五目タン麺を見た。

「・・・なんだかわからない野菜3つでどうよ?」

「冗談は顔だけにしろよ」

 

おいおい。なぜ酢豚1つでそこまで言われればならぬ。

しかし、たかが酢豚、でも今となってはされど酢豚なのだ。
彼がイニシアチブを握っているのはまず揺るがないこの状況。

酢豚のイニシアチブ。

今までかつて聞いたことのない単語が俺の脳裏に浮かぶ。

ここは下手に出なければ、やられる。

取引は穏便に、クールに済ませなければならない。

 

「なんだかわからない野菜4つ・・・」

「数じゃないんだよ」

「このなんだかわからない黄色いのもつけるから」

「・・・dai、豚なめんなよ」

「野菜だってすごいぞ!栄養とか、あるんだぞ!」

「じゃあ大人しく野菜食ってりゃいいじゃん」

 

しっかりしろ、自分。

酢豚ごときで論破されている場合じゃない。
確かにこの何だかわからない野菜には、豚に見合う魅力がない。

悲しくなるほどの歯ごたえしかない。

じゃあ、麺?それも違う。そんな単純な問題ではないのだろう。

酢豚が、遠い。

あまりに。遠い。俺は今、何のカードを切ればいい?

 

「じゃあ、何ならいいの?」

「うずらの卵」

 

いやいやいやいや。

俺は目の前に突きつけられた条件に、軽い眩暈すら覚えそうになった。

ふざけろ。バカも休み休み言えってもんだ。

うずらの卵だと?うずらはなあ、たったの1個しかないんだぞ?

この卵にどれだけの価値があるのかわかっているのか?
はっきりいってうずらの卵が食べたいがために五目タン麺を頼んだと言っても過言ではない。

ショートケーキで言えばイチゴ、メジャーリーガーで言えばイチロー、五目タン麺で言えばうずらの卵、お前、そういうレベルだぞ?

 

「・・・それはあまりにも無茶だ」

「じゃあこの話はナシだな」

「くっ・・・!」

 

うずら>酢豚? うずら<酢豚? うずら=酢豚?

わかるはずもなかった。答えなんて、わかるはずも。なかった。

 

改めて、器の中にニコニコして鎮座しているうずらを見る。

 

そうだ。 俺は、うずらを信じる。

うずらは、ずっと俺のそばにいてくれた。
俺は、ずっと俺に食べられるのを待っててくれたうずらを信じる。

酢豚に未練がないと言えば嘘になる。

でも、うずら。かわいいうずら。

うずら。

うずら。

愛しているようずら。

俺はうずらの卵を食べる。そう決意したときだった。

 

 

 

「嘘だよ、これ食べていいよ」

 

そう言って酢豚を俺に差し出す彼。

 

え・・・?

いいの、かい?本当に?

彼はちいさく微笑み、頷いた。

 

なんて、なんていいやつなんだろう。

俺はさっきまでの自分を大いに恥じた。
酢豚を食べさせてくれなかったというだけで、こいつを人間じゃないとすら思った。なんて愚かなのだろう。今こうして酢豚を差し出してくれた彼に対し、うずら1つで頑なだった俺は一体なんてちっぽけなのだろう。

彼の酢豚は、正直はっきり言って美味しくなかった。

でも、俺はなんだか幸せだった。
ガチガチに凍りついた心が、春の優しい日差しのおかげで溶け出したような、きっとそんな感じ。

 

「これ食べてよ」

「え?いいの?」

「うん、なんかそんな気分」

 

俺は大事に大事に守ってきたうずらの卵を、とうとう彼に差し出した。
本当にそんな気分だった。そうしなければいけない気がしたし、そうしたい自分もいた。

なんか、心のもやもやが晴れた気がした。

うずらの卵を美味しそうにほお張る彼。
酢豚がいくら頑張っても飲み込めない俺。

でも、幸せだった。幸せだったんだ。

彼がいて、俺がいた。少しだけ時間が流れた。

 

 

今ならば、はっきりとわかる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

俺は確実にハメられたのだ。

【おしまい】