人のいい部分が見えすぎて自分を嫌いになりそうな人
生きていると、他人との関わりは避けられない。
そして他人のことをたくさん見て知っていくうちに、どうしても他人のことがよく見えすぎてしまうことがある。
「自分もああなりたいな」「あんな風になってみたい」と思っていろいろ意識しても、まあ難しい。
そりゃそうだ。その人はその人で、自分は自分だ。自分が他の誰かになることはできない。できないってわかっちゃいるけど、ああ羨ましい。隣の芝生は青いってやつだ。
人の良さを見つけることができるのはいいことだ。
それを理想・目標として自分が成長できるという可能性があるから。
でも、繰り返すが、結局自分は自分であり、他の誰でもない。
自分が描くその理想郷には、到達できないだろう。でも、それでいい。
他人のようになれないからといって落ち込む必要はない。
他人を羨みすぎて、いいところばかり見すぎて、
翻って「それに比べて自分はダメだ」「何の取り柄もない」と自虐してしまう人がいる。
周りの人達はあんなにキラキラ輝いているのに、自分は何やってんだろうって。
その気持ちもわからなくはないけど、人は誰しも、いいところと悪いところを兼ね備えている。
あなたにとって「理想の人間」と思しきその人にだって必ず欠点がある。
誰からもうらやまれるイケメンだが、多額の借金を抱えている。
絶世の美女とも言われるほどの女性だが、家事ができなく家はぐちゃぐちゃ。
やり手の青年実業家だが、口がめっちゃ臭い。
こんな風に、誰しもいい面と悪い面がある。福山雅治だってウンコするんだ。
それはつまり、「それに比べて」と卑下しているあなた自身にもとてもいい面があり、
誰かがあなたの長所を見て羨ましく思っているかもしれないということ。
そして、人は、その長所をうまく育てることを考えたほうがはるかにいいということを、今日は強く言いたい。
他人に嫌われないようにと自分の素を隠す人
特にインターネットでは、外面だけはいい人が多い。
マイナス面を隠して、嫌な部分を見せないように見せないようにと気を配っている人が多い。
でもそれって、逆効果なんじゃないか?
ネットでも実生活でも、自分の嫌な部分を見せまいとひた隠しにし、他人に嫌われることを恐れている人ほど、実は人に嫌われやすいものだ。
「こんな性格だって知られたら嫌われるんじゃないだろうか」と自らに殻を作り、予防線を張り、うまく表面を取り繕って何でもないような素振りをする。
一見人畜無害だが、そういう人のほうがかえって誰からも相手されなくなってしまう。
それに、その「嫌な部分」というのは、思ったより案外人に嫌われるようなものでもない。
さらっと打ち明けてみたら、なんのことはない、自分の思い過ごしだったということもよくある。
仮に本当に他人に嫌われるとしても、そこをさらけ出して、
「あいつは嫌な部分もあるが、面白いヤツだ」ぐらいにまでいかないと、一生いじいじしないといけないハメになる。
そもそも考えてみると、何の嫌味もなく無条件で好かれる人ってあまりないし、
マイナスな面もあるけどプラスな面もあるって見られたほうが、よっぽどいいんじゃないかな。
なんだかんだ言って、結局自分は自分のようにしか生きることはできない。
で、本当にそのように生きることこそが、面白い。
本当に「自分の人生」を楽しんで生きている人は、他人から見てもそりゃ面白い。その分、あなたのことを好ましく思っているに違いない。
僕が思うに、自分の性格や嫌な部分も全部隠すことなく他人と付き合ったほうが気が楽だし、
そうすることで、余計に他人もあなたのことを認めてくれるようになるはずである。
無理に取り繕って、隠そうとしなくていいんだよ。
だから僕も、今日も臆することなく、のべつまくなしに言いたいことを言って過ごしていきたいと思います。
おっぱい。
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